増田夫妻のアトリエ(白井晟一研究)


増田夫妻のアトリエ(白井晟一研究)

この、小住宅を訪れたのは、10月のとある日のことであった。わざわざ我々を道中まで迎えに増田夫人が出向いていただいき、夫人の溌剌としたお話し振りを うかがいながら道をたどった。その住宅は、坂道を少し下った途中に、訪れるものに対峙しつつもある種の大らかさをもった表情で我々を出迎えてくれた。


■大らかな構成美

斜面に立地しているこの住宅の敷地の周囲には、土留めを兼ねた石垣が巡らされている。竣工当時のものをメンテナンスしながら大切に使用しているという木製 の門扉を入り、短いアプローチを通って建物の入口に着く。石垣の塀と建物の間は小さな庭になっており、実のたわわになった柿の木が彩りを添えている。

玄関ホールと呼べるスペースはなく、テラス状の入口からダイニングに入る。ダイニングは、この家のパブリックゾーンであり、道行く人々の様子が、石垣と庭 の樹木の切れ切れから適度なプライバシーを保ちながらも望まれる。ダイニングに連続した形で2層の吹抜けをもつアトリエには、いくつかの増田夫妻の手によ る作品等が置かれ、障子を通し、上方から差し込む柔らかな光に満ち溢れていた。吹抜けの中のオープンの階段を登ると、寝室があり吹抜けに面して開口があけ られている。この家の唯一ともいえる個室である。それらの空間は、それぞれ適度なヒエラルキーを与えられながらも、連続性をもって構成のハーモニーを作り 出している。それは、いわば「ワンルーム住空間の原点」とでもいうべき簡潔さといさぎよさを持って息づいていた。

白井晟一の設計による、小住宅を訪れるのは前回の「試作小住宅」(本誌96年9月号参照)に続き、2件目である。前回のものは、平屋建てで、軒が深く伝統 的な日本建築のプロポーションを持っており、内部も陰影の構成が折り重なりながらさまざまなシーンを物語ってゆく、いわば茶室建築に程近いものであった。 しかし、今回の「増田夫妻のアトリエ」はそれとは趣をを異にしており、大らからかであっけらかんとした空間構成から成り立っている。すべてが骨太でプリミ ティブな力感に満ち溢れているのである。前者を、仮に「陰」とすれば、後者は、「陽」と表現することが出来ると思う。


■「住まい方」に対するイマジネーション

増田夫妻は、美大を卒業されて間もない若い頃、知人に白井晟一を紹介され住宅兼アトリエの設計を依頼されたそうである。予算は、かなり限られたもので、今 思えば、当時スケールの大きな公共建築を手がけ始めていた白井晟一によく設計を依頼してしまったものだ、と笑っておられたが、多分、お二人共デザイナーで あるという御夫妻の持つクリエイティブな生活感と、「住まう」事に対する熱意が、白井晟一にも伝わっていたであろうと想像できる。ローコストではあって も、「住まい方」にイマジネイティブな夢をもっているクライアントの設計は、建築家にとって当然力の入るものだと思う。

この住宅は、夫妻の創作活動の場であり、しかも生活空間である。すなわち、それは夫妻の創造家としての生き様を受け入れつつも育んできた器であるとも言い 替えるられる。普通の住宅と一線を画しているのは、単に生活のくつろぎの場であるだけでなく、創造という仕事に身を置く夫妻の「巣」である事が、この住宅 のプランを「生きている」ものにしているのである。

住宅を、「玄関プラスnLDK」で括ることの拠り所を今さらながらに考えさせられる。要は、住まい手、空間を提供する側である建築家の「住まう」という事に対してのイマジネーションの問題であると思う。


■長持ちするとういうこと(フローとストック)

この家の骨格を作る柱は、8寸角が基本となっている。3寸5分角の柱に慣らされてしまった目には、今さらながらに新鮮に構造美の本質を訴えかけてくる。そ うか、「いえ」というものは、丈夫でなくては、いけないんだ。長持ちしなくてはいけないんだ。という、しごく当然の機能をともすれば結果的に2次的に追い やってしまう風潮があるとすれば、それは建築家にとって致命的なことである。

白井晟一の設計による小住宅のいくつかが、竣工当時とそれ程変わらない姿で現存しているという事実は、前回訪問した「試作小住宅」の場合も、今回の「増田 夫妻のアトリエ」の場合も、住まい手のその住宅に対する思い入れと愛情の深さが、その根底にあることは間違いない。その思いが、住宅が住宅であり続けるた めの当然のメンテナンス、例えば、壁を塗り替え、塗装をし直し、屋根を補修し、といったことを、建築家の意図を生かし育む形で行ない続けさせているのだと 思う。

しかし、作品が長持ちしている事のもう一つの側面は、建築家の建築観の問題があると思う。すなわち、白井晟一の建築は、日本人が伝統的に持つ住まいに対す る価値観「仮の住まい」、「雨風をしのぐ庵」、といった「フロー」的感覚から成り立っているのではないのである。それは、いくら木造であろうが、ローコス トであろうが、数百年も使い続けられているヨーロッパの街並を形作る建築群に近い「ストック」的感覚に根付いているものだと思う。

この感覚の違いは、例えば、日本とヨーロッパの自動車の作り方の違いにも通じるものがある。

日本車は、モデルチェンジが短いサイクルで繰り返され、その時代にいかに早く迎合するかという視点で作られているものが多い。いきおい、人気モデルがあっ たとしても、10年もすれば全くその当初の面影のない同じネーミングの車に変貌してしまっている場合が多いし、車自体の寿命も短い。それらは「フロー」す なわち、「消費されるべきもの」なのである。

それに対し、ヨーロッパ車は、あくまでブランドとしてのモデルに頑なまでに固執し、息の永いデザインのものが多い。現地でも年代物の車が現在でも大手を振っており、それらは、「ストック」すなわち、「使い続けるもの」である。

白井晟一は、若い頃にヨーロッパで哲学を学んだ後に建築の設計を始めている。多分、氏の根底に流れるヨーロッパ的「ストック」感覚が、一つには白井作品を「長持ちする」ものにしているのだと思う。


■白井晟一の住宅の2つの系譜

白井晟一のこの時期の住宅作品を調べてみる気付くのは、大きく2つの系譜があるということである。一つは、「土筆居」(1952)、「試作小住宅」 (1953)、「木村邸」(1959)等、平屋で切り妻の深い軒をもつ大屋根がかかり、内部も空間が適材適所的に組み合わされて形づくられたもので、これ は、後の「呉羽の舎」(1965)等にも同じことがいえると思う。

もう一つは、今回の「増田夫妻のアトリエ」、「アトリエ・5」(1952)「四同舎」(1959)等の、メンバーの大きい構造材、軒の出ない緩勾配の屋根 をもつもので、空間構成もざっくりとした大らかなものである。特に後者のグループに属するものは、「柱」、「列柱」に対する憧憬が感じられるし、松井田町 役場の列柱にも相通じるものがある。また、増田夫妻のアトリエの、剛天井の作り方などは、その後の石水館、親和銀行等にもその系譜を見ることが出来る。

住宅に限らず、白井晟一の作品群は、これはだれが見ても白井晟一だな、と感じることは出来ても、その形態はかなりバラエティーに富んでいる。自由奔放でい て様式的、骨太でいて繊細、閉鎖的でありながら開放的、なのである。考えて見れば、建築の設計で、我々は、常に相反矛盾の問題に突き当たる。「肌触りのよ さ」と「堅牢さ」、「クリエイティブであること」と「品格があること」、「正面性があること」と「親しみやすさ」、「プライバシーへの配慮」と「空間の開 放性」、などはすべてある意味で矛盾に満ちたものであるが、その違和感ない統合こそが設計の目的であるといっても過言ではない。そもそも「機能」と「美」 を同時に満足させるものをかたちづくる作業そのものが、宿命的に葛藤を強いられるものなのだと思う。また、その対極にあるものの距離が遠ければ遠いほど、 建築は人の心を動かしえるものになるというのも一つの真理である気がする。

聖と俗、現実主義と理想主義、老獪さと無邪気さ、等の対極に位置するものの葛藤がこそが、白井作品のエネルギーになっているのだと思う。増田夫妻が、最後 に言われた言葉が、印象的であった。「白井先生の書かれたエッセー「豆腐」「めし」等が、この歳になってようやく何を書こうとしているかわかってきたよう な気がします。」

暖かいおもてなしを受けて、我々は増田御夫妻の許を後にすることになった。


住宅建築97.1月号
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