時代を越えた住まい(白井晟一研究)



上野毛学舎

その小住宅は、40年前の竣工時の姿をほぼそのままに保った形でたたずんでいた。白井晟一設計による「試作小住宅」を訪問したのは、残暑がまだ厳しい8月の末のことであった。上野毛駅よりしばらく歩いた住宅地の中に、それは何の違和感もなくこじんまりと建っており、こんなところに白井晟一の作品があったのか、という思いと同時に、親和銀行や松濤美術館といった、白井晟一の後期の大きなスケールの作品の先入観があまりに大きく、その素朴なたたずまいとの差異に戸惑いすら感じた。

◯プリミティブなで繊細な仕事
外観は、ゆるい勾配の切妻の大屋根が乗り、着色した柱と白壁の対比は、代表作の一つである善照寺を思い起こさせる。開口部にはめられた木の横格子、屋根、外壁、また外構の植栽に至るまで手入れが行き届いており、住まい手のメンテナンスへの配慮が伝わってくる。短いアプローチを過ぎ、建物から張り出された壁に沿った形で玄関がある。現在の住まい手は、東京でピアノを勉強しておられる若い女性である。案内されて室内に足を踏み入れると、そこにはまさしく白井晟一特有の密実な空間が広がっていた。「広がっていた」と表現するには、あまりにスケールの小さい住宅かもしれない。しかし、それはそう表現するのにふさわしい空間の奥行きと構成をもって存在していた。ちょうどそれは、2〜3畳程度の小さな名茶室に通された時の感覚に近いものがあるかもしれない。
内装は、40年前からほとんど手を加えられていないにもかかわらず、はっかけ納まりの枠と、土壁のあいだに全くすき間はないし、クラックもない。2つの和室は壁と天井を土壁で塗り回しており、取り合い部分に回り縁を入れることもなく、きれいに納まっている。玄関ホール部分の板張りの(最近のようなツキ板でなく1分位のむく板を使っているが)目透かし天井も、回り縁なく土壁と取り合っている。土壁の天井に埋め込まれた照明も、障子と土壁の取り合い部分の枠が隠されている。外部の建具や、造作材の多くは安価なラワン材であり、現在でも全くといっていいほど狂いがない。この規模の住宅としてはかなり太いといえる秋田から取り寄せられたという4寸5分角の杉柱も、割れも入ることなく存在感を持って家を支えている。

ここでは、素材がすべて「もののあるがままの本来の姿」を具現化すべく組み合わされ、調和しつつ快い緊張感をかもしだしているのである。「床板はは床板らしく」、「土壁は土壁らしく」、「モルタルの床はモルタルの床らしく」、「ラワン材の建具はラワン材の建具らしく」等・・・。「プリミティブ」という言葉が思い浮かべられた。

建築の納まり、材料というのは、放っておくと安易に流れるものだと思う。例えば、違う材料が接するところには、納まりのための材料を入れ、あるいは目透かし目地をとり、最後は、シールでごまかしといったように、いわば「逃げ」の納まりになってゆく。それは、だれでも設計者であれば現場でのやりとりの中で経験することである。「先生、これでは後で材料が動いたときにひびが入りますよ」などと脅されると、思わず妥協しそうになる。もちろん納まりの逃げが必要でないということではない。しかし、あまりに安易に「逃げ」と称して安易に納まり材を入れ、偽物の材料を使いすぎる事に我々は慣らされすぎてはいないだろうか。多分白井晟一は、すべてわかっていたのだと思う。本当に逃げが必要なのはどんな場合かということを。白井晟一の造形は、素材が本来持つプリミティブな力の表現がその一つの柱になっているといわれるが、実のところ、それを裏付ける「繊細な仕事」があってはじめて成り立っていた事に注目しなければいけないと思う。

◯白井晟一と秋田県湯沢町のこと - 湯沢町の訪問
白井晟一と、今回の「試作小住宅」の事を記する時に忘れてならないのは、彼と秋田県湯沢町との関係である。試作小住宅の施主は、現在この小住宅にお住まいの女性の祖母にあたられる渡部律子氏ご夫妻である。(ご主人はすでになくなられている)建設当時の事を伺ったところ、「そのあたりの事は祖母でないとちょっと・・・」ということであったので、9月の初旬に秋田県湯沢町に渡部律子氏を訪ねることとなった。
秋田県湯沢町は、東京から山形新幹線を利用しても約4時間かかる旧佐竹藩の面影を残した小さな町である。この町に白井晟一は、戦時中に家財を疎開させたのがきっかけで縁ができ、この周辺をも含めて決して少なくない数の作品を残している。代表的なものだけでも、秋の宮村役場、稲住温泉 浮雲、雄勝町役場、横手興生病院等があげられ、この地と白井晟一の関係の深さがうかがえる。
渡部家は、町で古くから病院を経営されている名家である。安政年間に建てられたというお宅の応接室で、80歳を超えられているというのに、かくしゃくとしておられる律子氏のお話しをうかがった。それによると、白井晟一は戦後の一時期、かなりこの町やここの奥座敷に当る稲住温泉(秋の宮村)に、ある時は武者小路実篤ら何人かの文化人と共に滞在したとのことである。今回の「試作小住宅」施主である渡辺律子氏ご夫妻との交流はその中で生れ、渡辺ご夫妻の7人のお子様たちの学生時代を東京で過ごすための拠点、また、将来的にはご夫妻のセカンドハウスとして、設計の依頼がなされたそうである。律子氏の亡きご主人がこんな小住宅の設計を依頼してよいものか白井晟一に打診したところ、彼は、「私は設計屋ですから、頼まれれば犬小屋でも設計します。」と答えたと、律子氏はおかしそうに笑っておられた。もちろん冗談半分にせよ、孤高の人、反骨無双の人等と表現される彼のイメージからすると意外な一面を見たような気がする。白井晟一は、馬場璋造氏がその著書の中で述べられているように、実際にお目にかかってみると、独特の雰囲気を演出しつつも、案外親しげで気さくな一面を持ち合わせていた「スタンスの広い」人物だったのかもしれない。
 白井晟一は、昭和20年代の建築雑誌のなかで、秋田県湯沢町は自分をあたかも郷土出身の建築家のように接してくれている、と書いている。たしかに湯沢町の人々は、数々のの仕事のチャンスを彼に与え、初期の白井晟一の作品形成のなかで重要な一時代を支えたのである。

◯協力者 大村健策氏 (建築のエイジング)
 「試作小住宅」を施工された大村(旧姓 中村)健策氏にお目にかかることができた。正確に言うと実施設計図の担当及び施工をされたので「協力者」ということになる。大村氏は、熱海で工務店をお父様と当時やっておられ、1948年竣工の嶋中邸書屋以来、長期にわたって白井晟一とタイアップする形で多くの作品に関わってこられた。
 この住宅の設計も、白井晟一が描いたスケッチや簡単な図面等をもとに大村氏が実施図を作成し、またそれを白井晟一が手直ししというキャッチボールがくりかえされながら進められたとの事である。実際その図面は、たいへん完成度が高く美しいもので、設計にかけたエネルギーとともに、何よりものつくりの「楽しさ」が伝わってくるように感じられる。また、施工も在来木造工法との違いに職人が戸惑いながらも、手をかけ緻密に進められたとの事である。
 建築の「エイジング」という事がある。建築が永くこの世に存在し続ける条件には、偶発的なものも含め数々の要因が考えられるが、その1つに「いかにゆっくりつくられたか」ということがあるように思う。少々乱暴な言い方になるが、形づくるのにかけられた時間に正比例する形で建築は世の中に存在し続けるような気がしてならない。月並な言い方になるが結局それは、手間をかけていねいに企画され設計されまた施工されたものは永持ちする、というあたりまえの事なのかもしれない。バブルの頃の急いでつくった建築ははたしてどうなって行くのだろう・・。
 試作小住宅が原形を保ち美しい形で存在している事実は、一つに大村氏のかけたエネルギーがそれを支えているのだと思う。
 
◯上野毛学舎
渡部律子氏のお宅で、この住宅に関する数々の資料を見せていただいた時に、図面や、白井晟一からの手紙の束等に交じり、1冊のファイルが目に止まった。「上野毛学舎」というタイトルがそれにはつけられていた。単なる住宅ではなく「学舎」なのである。永いあいだに、律子氏のお子さんが次々と東京での拠点として住み、現在ではお孫さんの代になっている。今までに約15人の住人がここを通りすぎ社会に旅立っていったそうである。しかし、一切建物に手を加えることは、律子氏の許可なくしては出来ない。「学ぶための家」だからである。だからこの住宅は40年間も変わらずに年を重ね続けられたのである。律子氏は言われた。「白井先生の魂が生き続けている気がして、安易な改装はしたくありません」。今回のこの「上野毛学舎」及び秋田の湯沢町の訪問で、建築家と施主の関係の一つの理想を見たような気がした。

参考文献 :「白井晟一研究」        南洋堂出版
      「生残る建築家像」 馬場璋造著 建築情報システム研究所発行


●稲住温泉 浮雲 離れ客室
白井晟一が秋田の地で数多くの作品を残すようになったのは、この温泉の先々代のご主人の押切永吉氏との交流が出発点になっているとのことである。訪ねてみると、そこには「浮雲」と名付けられたホール(かつてはダンスホールとしても使用していたらしいと)、渡り廊下で結ばれたいくつかの離れ客室等が現存していた。
「浮雲」の外観は、あたかもチロルの山小屋のようで、白井晟一の作品の系譜のなかで、どのような位置づけになるのか戸惑いを感じる。後の作品群の切妻の大屋根の出発点としてとらえることができるのかもしれない。内部は、多少改修されているが、白井晟一がデザインした当時の照明器具等もそのまま使われている。
客室群は、自然の中にのびやかに配置された和風建築で、円形の水上に張り出したテラス等、遊び心を感じる。

●秋の宮村役場
かつて高村光太郎賞を受賞し、白井晟一の名が世に出るきっかけとなった作品である。現在は、稲住温泉敷地内に移築されており、「浮雲」と渡り廊下でつなげ稲住温泉館内に現在数多く展示されている武者小路実篤の書画ギャラリーとしてリノベーションしてゆく計画もあるらしい。建て替えが決まっていたこの建物を、押切氏が個人の負担で移築した経緯があったようである。外観は、ほぼ完全な形で再生されているが、内部はスケルトンがむきだしのままで、わずかに階段だけがかつての形で造られている。

以上のの作品は、すべてが一つの敷地内に現在存在しているものであるが、作風がすべて異なり、予備知識がなければとても同じ作者によるものとは思えない。白井晟一の作家としてのスタンスの広さを感じる。また、それらのあっけらかんとした明るさに溢れた作品と、後の壁に閉ざされた白井作品との二面性が興味深い。


住宅建築96.11月号
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